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関西大学
経済人クラブの理念

関西大学経済人クラブの理念

 経済人クラブは学歌の歌詞で歌われている高い思想を取り入れ「真理想念」と人格の向上と正義の奉仕の精神をクラブの理念として掲げました。

 「理想」という言葉は「真理」にもとづく「想念」、「真理想念」から生まれた言葉です。

 

 真理の討究は、日々の研鑽と言う重き使命と信念から「学の実化」と結びつきます。そして、人格の向上と正義の奉仕を世に為すと行動し伝えていくのだと。

 (真理を学んで、真理に従って生活しなければいけない、人間としての深い道を学びなさいと)真理想念」・ 使命(信念)・行動のサイクルを循環させるこの思想は東洋、西洋の両哲学に共通するものです。

  • 「真理」とは、(1)真実の道理(2)理論の法則に一致する知識(3)何人も認めなければならない普遍妥当的な知識
  • 「想念」とは、心に浮かぶ、まとまった考え、思索(哲学的な問題などについて論理を追って考えを深めること)
  • 「理想」とは、考えうる最も完全な目標、実現は不可能かも知れないが接近すべき絶対的目標、そうなってほしいという条件が全部かなえられた状態
  • 「討究」とは、物事の真の意味などを深く研究すること
  • 「使命」とは、与えられたつとめ、課せられた任務

(以上は、三省堂 広辞林より抜粋)

関西大学 学歌

 「自然の秀麗 人の親和・・・」で始まる学歌は、大正11年9月、関西大学が大学令による大学に昇格した後に制定されました。校歌はすでにありましたが、時の総理事山岡順太郎が提唱する「学の実化」をうけて、新時代の学歌が待望されていました。

 早稲田、明治両大学の校歌とともに“校歌3名曲”との誉れが高い本学学歌は、本学教授服部嘉香が作詞し、服部の知人で作曲界の異才山田耕筰が作曲しました。その後、山田耕筰は、歌唱上の制約から第3節の「自由の訓練 自治の発揮」を「自由の尊重 自治の訓練」と、第2節の「学の実化」をじつげと歌うように指導しました。それ以来、今日に至るまでその歌詞で歌われています。

関西大学ホームページからの引用

 

作詞:服部 嘉香 作曲:山田 耕筰

(一)

自然の秀麗 人の親和

たぐいなき 此の学園

我等立つ 人生の曙に

燦たる理想を 仰ぎつつ

学ぶは一途 純正の

若き心に 讃えなん

関西大学 関西大学

関西大学 長き歴史

(二)

真理の討究 学の実化

たぐいなき 此の学園

我等有つ 溌剌の精神に

栄ある文化 創るべく

励むは一途 研鑚の

日々を楽しみ 忘れまじ

関西大学 関西大学

関西大学 重き使命

(三)

自由の尊重 自治の訓練

たぐいなき 此の学園

我等期す 人格の向上に

正義の奉仕 世に為すと

希うは一途 先進の

歩みさだかに 伝えばや

関西大学 関西大学

関西大学 高き権威

 

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紹介

関西大学教授 服部嘉香

明治19年(1886)4月4日東京に生まれる。幼名 浜二郎。
松山中学校を経て、早稲田大学に入学。
明治41年文学部英文科卒業、同期生に北原白秋、三木露風、若山牧水がいた。

宮嶋綱男*(のち本学理事長)との親交はこの頃にあった。
大正6年わけあって早大を退職。翌年、英字紙大阪勤務のため来阪。すでに関西大学の専務理事を務めていた宮嶋の紹介で、大正10年関西大学講師(のち教授)となり、在職中は英語、国語、心理学、商業実践等を担当。
その学殖を駆使して活躍。学歌の制定などにも貢献し、大正14年に本学を退職、のち東京に帰任。
早稲田大学に復帰し、昭和31年定年退職まで文学部教授を勤めた。
昭和50年(1975年)5月10日没した。89歳。
詩集「幻影の花びら」「バレーへの招宴」などあり。

*明治17年(1884)10月13日愛媛県生まれ。山岡順太郎の秘書

11代学長  山岡順太郎

慶応2年(1866)9月18日石川県に生まれる。
金沢医学校に入学したが、「志は医に非ず」として退学し、陸軍士官と志して上京。ゆえあって士官も断念。
明治18年茨城県に就職。
明治25年同郷の先輩中橋徳五郎をたよって、逓信省に入省。同省主計課法規係長まで進んだ。
中橋の官界辞去と共に31年に辞職。
中橋と共に同年9月、大阪商船株式会社に入社。以来10数年、中橋社長を助け、大阪商船の発展の基礎を築く。
また当時衰退していた大阪鉄工所(日立造船の前身)の社長となり、積極経営が功を奏して、見事に再建に成功。一躍大阪財界に名を馳せた。
他に日本電力などの社長となり、更に宇治川電気、大阪曹達など10有余の会社役員を兼ねた。大正6年から大正10年まで土居通夫のあとを継いで、大阪商業会議所会頭を務めた。
関西大学とのかかわりはこの頃からで、本学理事柿崎鉄吾(当時大阪商船顧問弁護士)の斡旋により、大正9年本学評議員に推挙され、大正11年5月総理事に選任された。
翌年評議員に選任される。千里山学舎建設、大学昇格などの大事業を遂行。本学中興の祖といわれる。
昭和3年(1928)11月26日没した。62歳