慶応2年(1866)9月18日石川県に生まれる。
金沢医学校に入学したが、「志は医に非ず」として退学し、陸軍士官と志して上京。ゆえあって士官も断念。
明治18年茨城県に就職。
明治25年同郷の先輩中橋徳五郎をたよって、逓信省に入省。同省主計課法規係長まで進んだ。
中橋の官界辞去と共に31年に辞職。
中橋と共に同年9月、大阪商船株式会社に入社。
以来10数年、中橋社長を助け、大阪商船の発展の基礎を築く。
また当時衰退していた大阪鉄工所(日立造船の前身)の社長となり、積極経営が功を奏して、
見事に再建に成功。一躍大阪財界に名を馳せた。
他に日本電力などの社長となり、更に宇治川電気、大阪曹達など10有余の会社役員を兼ねた。
大正6年から大正10年まで土居通夫のあとを継いで、大阪商業会議所会頭を務めた。
関西大学とのかかわりはこの頃からで、本学理事柿崎鉄吾(当時大阪商船顧問弁護士)の斡旋により、
大正9年本学評議員に推挙され、大正11年5月総理事に選任された。
翌年評議員に選任される。千里山学舎建設、大学昇格などの大事業を遂行。本学中興の祖といわれる。
昭和3年(1928)11月26日没した。62歳